<特集:ポップ・フィロソフィー> 宿命論と人生の意味 -「ジョジョの寄妙な冒険」 第五部エピローグの解釈-
この緊張関係は直感的には以下のように表現できる。先に述べたように、宿命論が正しければ、未来の出来事はすでに、例えば私たちが生まれるずっと前に、決定されていることになる。 それゆえ宿命論のもとでは私たちは、すでに決められた事柄を 「こなす」 だけの存在になる。 私たちの努力は創造性へ寄与しない。 かくして、「意味」 が創造性を意味する場合には、宿命論は私たちの人生から意味を奪う。 ポイントは以下である。 宿命論が正しければ、存在または実在の全体 (未来の出来事も含む) は私たちの誕生以前にその内実を細部まで確定している。 それゆえ私たち自身が存在全体の総量を増加させたりその内容を変化させたりする余地がない。 この意味で、私たちは無力であり、「努力したり喜んでも仕方がない」。
ネーゲル流の分析に従えば、宿命論が人生から意味を奪うダイナミクスは 「ふたつの視点」 なるものを通じて記述できる。 私たちは、普段は、自分の人生を 「非反省的に」 生きている。 すなわち私たちは、自分が未来に新しい何かを創造したり体験したりすることを漠然と信じながら、活気ある生活に充実感を覚えたり決まりきった生活にうんざりしたりする。 こうした 「日常的」 視点においては、ある事柄が有意味と見なされたり別の事柄が無意味と見なされたりするが、人生全体に関して 「それは無意味だ」 と主張されることはない。 この 「普段の」 視点においては、ひとは人生が意味をもちうると (暗に) 信じている。
しかし私たちはときに自分の生活から 「一歩退いて」、人生と世界の全体を客観的に眺めることがある――この際、世界が宿命論的であることに気づかれるときがある。 そして、こうした 「一歩退いた」 視点から見える世界と人生に、有意味性の日常的基準――創造的な活動こそが有意味だ――を適用するとき、人生の無意味さが発見される。 宿命論的な世界においては、存在全体を客観的に眺める 「反省的」 視点という (おそらく一定の存在者しかもちえない) 高度な能力が、人生の無意味さを暴露してしまう。
以上が 《宿命論がいかにして人生から意味を奪うのか》 に関するネーゲル流の説明である。 要点は以下の二点。 (1) いわば 「人生を直接的に生きる視点」 (以下、抽象的に 「内的視点」 と呼ぶ) においては、私たちは人生が意味をもちうると信じている。 (2) 人生を客観的に見る視点 (以下、抽象的に 「外的視点」 と呼ぶ) においては、世界や人生全体のあり方を考慮したうえで人生の意味が吟味される。 そして、世界の宿命論的様相が気づかれるとき、人生は完全に無意味に思われてくる。
ネーゲルはこうした 「ふたつの視点」 について重要な点を指摘する。 それは、これらの視点は人生の意味に関して相反する見え方を供給するが――内的視点は人生を意味あるものに見せるが、外的視点は人生を無意味に見せる――私たちはどちらの視点も捨て去ることができない、という点である。 それゆえ私たちは 《一方で人生に意味を認めながら、他方で意味を否定する》 という逆理的な状態に立つことになる。 ネーゲルはこうした状態をカミュに倣って 「不条理 (absurd)」 と呼んだ。